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甚六屋年表

第一章ライヴハウス甚六屋  下巻

1977 . 7

甚六屋マスター、島津貫司が見初め、マネージャーを買って出たバンド「ぎんぎん」。
メジャーなビクターからのレコードデビューとなり、そしてなんとそのレコーディングの一部を甚六屋で行うということになった。
LPの中の数曲がライヴというのはその当時ではかなり変則的なものだったが、ライヴバンドである彼らを生かすにはうまい手段だったと言える。

レコーディング当日の様子はこうだ。
持ち込んだレコーディング機材は一階に続く階段のところまでいっぱいで、知らなかった客は何事かと思ったそうだ。
そしてなるべく音を出さないようにと促された、拍手までもである。
その日、大胆にもラジカセを持ち込んで録音した人のテープを聞かせてもらったが、演奏中は異様なほど静寂しており、まるでスタジオのよう。曲が終わった後の拍手すら遠慮がち、逆にやりにくかったのではと思う。
だが後半は両者の固さも抜け、いい雰囲気になっている。
LPの10曲中、6曲にその録音が使われている。
残念ながらレコーディング日は定かではない。

デビューアルバム「側車」、その当時日本語で歌う本格的アコースティックブルースバンドとして、関西の憂歌団と比較されたこともあった。

裏ジャケ

「甚六屋」表記
THANKS TO 島津貴司とある、誤字である。

そして晴れてのレコード発売記念コンサートを1977年7月25日(月)に行った。
この年の大晦日、年越しライヴも「ぎんぎん」が単独でつとめている。

当時の甚六屋、「ぎんぎん」のライヴの様子

ドリンク+チャージ(200〜600円)PM6:30〜  
11/8 高田渡&ヒルトップストリングスバンド
11/9 羽丘じん
11/10 田中研二/とめ
11/15 津和のり子
11/16 アンクル・ムーニー
11/17 フィルム・ギャラリー
11/22 さかうえけんいち/瀬戸口修
11/23 ぎんぎん
11/24 橋本俊一
11/29 南正人
11/30 友部正人

北千住「甚六屋」1977年11月のスケジュール

※当時の「ぴあ」に基づく

1977 . 11

昨年に他界した「高田渡」もこの頃の常連出演者である。
MLSに今回「金子マリPresents 5th Element Will」として参加する大西真は(連続3回目!)中央線方面に住んでいたにも関らず高田渡を何度か見に来ていた。お酒を一緒に飲んだ思い出があるそう。
この頃のまだ名前が上がっていない主だった常連出演者は「友部正人」「友川かずき」「南正人」「三上寛」「津和のり子」「森田童子」など。
友部正人は週に2回の出演という時もあった。
友川かずき、南正人、三上寛は「夢来館」からの出演。
津和のり子は最後のほうまで盛んに出演していた。
森田童子の時は本当にたくさんの客が来たと生前、島津は言っていた。嫌になって呼ぶのを止めたとも?!
そしてマスター島津は図々しくも多くの出演者の演奏にしょっちゅう飛び入り参加していたそうだ。

1978 . 6

ドリンク+チャージ(200〜600円)PM6:30〜  
6/1 中川五郎/青木とも子
6/8 KEEBOW
6/15 「町から町へ」さかうえけんいち/瀬戸口修
6/22 津和のり子
6/29 アンクル・ムーニー

北千住「甚六屋」1978年6月のスケジュール

※当時の「ぴあ」に基づく

フォークと言うにはちょっとモダンな感じのKEEBOWも島津お気に入りのシンガーだった。
7人中4人が今回のミュージックライン千住Vol.3の出演者だ。
さかうえが始めたイベント「町から町へ」は、なんと30年近くたった今でも、江口晶が名古屋で経営する「ぷらすわん」で続いているのだ!

甚六屋の特徴のひとつに音響の良さがあった。
マスター自身、オーディオマニアではあったのだが、開店当初から店にはそぐわない大きくて高価なアルテックのA7スピーカーが鎮座していた。
結婚した時の支度金で買ってしまった物だそうだ。ずっと後になってからも自慢げに語ってくれ、飲み横の甚六屋になってからも、亡くなった後も狭い店内に当たり前のようにそれは鎮座していたのだった。

このぐらいから極端にライヴの数が減っている。
はっきりした月はわからないのだが、島津は綾瀬時代の仲間の尾口氏に声をかけ、店を手伝ってもらい、自身は新たにお店を出すことにしたのだ。
新たな店というと聞こえはいいがライヴハウスではなく、普通の飲み屋で、実は生活の為だったらしい。
その店の名を「ロンシャン」と言う。
詳しくは次の章で触れるとして、この翌年からは尾口氏に権利を譲り、ライヴハウス「甚六屋」からは完全に手を引いている。

1979 . 1 頃

権利を譲り受けた尾口は、今までとは違うコンセプトのもと新「甚六屋」をスタートさせる。
それはもっと誰もが自由に参加でき、ジャンルにもこだわらない、そして新しい可能性を育てていくと言うものだった。
それまでの常連の中には極端な変化に戸惑い、去っていった者もいたが、新たな人たちも集まってきたのである。
それは以外にも、地元千住界隈の人間ではなく、ちょっと離れた地域の若者たちだった。
その頃の数少ない情報誌「ぴあ」「シティーロード」に掲載されていたことが大きかったのかもしれない。
ドリンク+チャージ(0〜600円)PM6:30〜  
5/2 鷹魚剛/丸山拓一
5/3 ちゃんがら/春秋楽団
5/9 守沢鷹と卍コオロギ
5/10 やぎとハモニカ
5/16 野沢亨司/黒須裕
5/17 新人コンサート 募集:出演バンド、飛び入り
5/23 瀬戸口修/黒川つねみ・バースデーコンサート
5/24 佐藤まさみ(ガットギター)&植竹哲郎(b)
「これがDuoだ!」
5/30 北方義広(元ちゃんちゃこ)
5/31 津和のり子

北千住「甚六屋」1979年5月のスケジュール

※当時の「ぴあ」に基づく

これを見ていただければわかると思うが、顔ぶれがだいぶ変わっている。
甚六屋、創設当初にあった「新人コンサート」が復活している。
それに伴って、チャージが¥0からになっている。ちなみに島津の時は¥200。
佐藤正美と植竹哲郎はフュージョンバンド、元「カリオカ」のメンバー。
佐藤正美はその当時お店のすぐ裏に住んでいて、しょっちゅう遊びに来ていたそうだ。
ライヴの時もパジャマ姿で現れていたらしい。ソロの出演も多いが、変わった組み合わせも多かった。この前月などは、客仲間がつれてきた’つづみ’奏者と狂演?している。
植竹哲郎はその後の飲み横時代まで、客として大常連であった。私が始めて甚六屋に行った時も彼は居て、’何か演奏してみな’と言われた思い出がある。もちろん期待にお答えして今日がある??!

ドリンク+チャージ(0〜600円)PM6:30〜  
10/12 さかうえけんいち/江口晶
10/16 ”アコースティック・ロックの狂演”
サスケローリング・バンド/春秋楽団
10/17 4ビートジャズ  出演:谷川賢作(p),高山近志(g),杉山茂生(b)
10/18 ”汽車がゆっくり入ってくる” 高橋秀樹
10/19 なぎらけんいち
10/23 荒井沙知
10/24 羽丘じん
10/25 生田敬太郎
毎週月曜日そのう・ニューディスク・コンサートあり。チャージ無料。
※イベント、貸しホール及びコンパ、他受け付けます。

北千住「甚六屋」1979年10月のスケジュール

※当時の「ぴあ」に基づく

毎週のレコードコンサート、「そのう」とは北千住にあったレコード屋のことである。
そこの協力を得て新譜のレコードをかけていた、一種のジャズ喫茶状態。
今回のミュージックライン千住Vol.3に出演の「なぎらけんいち」の名が見える。
島津時代から出演していたようで、彼の座った後の天井にはたくさんのタバコのフィルターがくっついていたそうだ。
出演してくれた中で、なぎらが一番ギターがうまかったと島津は生前語っていた。
ジャズ系も定期的に出演し始めた。だが島津の頃と傾向が重なってる部分もまだこの頃はある。

1980 .5 頃

ドリンク+チャージ(0〜700円)PM6:30〜  
5/23 北方義朗 600円
5/24 一人芝居「棒をのんだ話」作:石原吉郎  出演:藤野浩  料金カンパ
5/29 チェロとギターの狂宴  出演:伊藤耕司(vc),佐藤正美(g)  600円
5/30 たかはしひでき  500円
5/31 新人コンサート  出演者募集(飛び入りOK) ドリンクのみ
6/5 葵まつり  500円
6/6 瀬戸口修、サスケ・ローリングバンド 700円
6/7 詩と舞踏〜黒い炎群座その4  
出演:西田さき、他   料金カンパ
毎週月曜日そのう・ニューディスク・コンサートあり。チャージ無料。

北千住「甚六屋」1980年5月のスケジュール

演劇系も多くブッキングされるようになる。
この後ぐらいから、「たま」のメンバーも常連客だったらしい。
新人コンサートにも出ており、甚六屋で知り合った者を中心にあの「たま」は結成された。
ミュージックライン千住実行委員の遠藤もこの頃’新人コンサート’に出演している。

※当時の「ぴあ」に基づく

ドリンク+チャージ(0〜600円)PM6:30〜  
12/5 津和のり子 600円
12/6 甚六寄席  出演:千住落語会  オーダーのみ
12/11 丸山拓一/くま  500円
12/12 YOTA/尾藤和美  400円
12/13 詩と舞踏「黒い火群座その6」
出演:西田サキ、尚なお子、シェリー怜 
料金カンパ
12/15 ウインク  400円
12/16 鈴木正雄+小林一美 400円
12/17 たかはしひでき 500円
12/18 サスケローリングバンド 500円
12/19 ラリー・フラムソン 500円
12/20 シトロン、他  400円
※15〜20日 飯田聡写真展「太陽の絵」あり
毎週月曜日そのう・ニューディスク・コンサートあり。チャージ無料。

北千住「甚六屋」1980年12月のスケジュール

※当時の「ぴあ」に基づく

定期的に「甚六寄席」と称し落語会が開かれていた。写真展も行われている。
何でもありのコンセプトがよく現れている。

残念ながら雑誌「ぴあ」の資料はここまでしか入手できなかった。
それでは、その後ライヴハウス「甚六屋」はいったいどうなったのか?

1981 . 8

1984 頃

新しい人材を発掘すべく続けてきたのだが、いかんせん商売としてはかなり厳しい状況だったようだ。
そして時代の風潮もアコースティックなものからテクノロジーなものへと変化し、もはや継続するのは不可能と尾口は判断した。
そしてある日、店の仲間連中に閉店することを告げたのだった。。。

閉店することを知ったその仲間たちは何とか「甚六屋」を存続させようと、代わる代わる日替わりで店の切り盛りを買って出たのである。
水商売の経験も無いような連中が、料理を習ったり、見よう見まねで酒を作ったりと頑張ったのだ!
しかし結局誰しもが、これでは続けていくことができないということを身をもって知らされたに過ぎなかった。
だがこの事は、尾口にとって、かけがえの無い出来事だったようだ。


そしてこの年ライヴハウス「甚六屋」は島津時代も含め、約9年間の歴史に幕を閉じるのである。

第二章へ

この翌年1981年の夏、店内を大改装する。
それぞれの各得意分野のお客が集まり、夏休みを利用してのものだった。
防音を整え、内装に手を加え、音響設備を組みなおし、ライヴハウスらしく出入り口に受付を設けた。
そして徐々に新人コンサートが主体となっていくのである。

尾口自身、これほどアマチュアの人間が発表の場を求めてるのかと驚き、そういう人たちにちゃんとスポットライトのあたる場を提供したいと考えたのだ。
まだストリートミュージシャンなど認知されていない時代、月に2回ものペースで新人コンサートは実施されるようになる。
月2回でも20人ぐらいの出演者が毎回来たのだった。
多い時などは一階に続く階段にズラっと30人以上並んだそうだ。そんな時は各自せいぜい1、2曲の演奏、だがその為に皆集まるのだ。
そして女性の数も多かったらしい、女性限定の日もあったぐらいだ。
面白いことに参加者のほとんどは足立区界隈ではなくちょっと離れた地域からの者がほとんどだったようだ。

*敬称略