甚六屋年表

第二章 : ロンシャン、そしてホンキートンク

元、足立区役所、千住警察の道を真っ直ぐ、大踏み切りを渡ったすぐ左手に「ロンシャン」はあった。
写真は現在の様子、建物が数年前に建て替えられてしまいビルになっている。
ただ隣の店と外観の雰囲気はちょっと似ている。

面白いことに当時関係者に聞くと、ライヴハウスでなくなったこの店の時が一番、音楽が鳴っていたそうである。
夜も更けてくると、だれかれともなく生演奏が始まり皆で騒いだ。
甚六屋に出演したミュージシャンがそのまま顔を出すこともしばしば。
今回ミュージックライン千住Vol.3出演の「いちかたいとしまさ」とその仲間たちもよく顔を見せ騒いでいたそうだ。
彼は甚六屋の初期の「新人コンサート」出演以来の関わりで、以後お店が変わってもたびたび来店してはギター片手に歌っていたのだった。

よく常連の昔話などで出てくるのはこの頃のことが多く、本当に自由な空気が流れていたらしい。
店内には誰が持ってきたのか番傘などがインテリアとしてあり、ローラースケートが流行れば皆で店の周りで遊び、早めの時間には学生服の女子高生まで来ていたそうだ。(一人で来る女性のお客も意外と後々まで多かった。)
ライヴハウスでなく飲み屋になったせいもあるのか、この時からの関わりの人も結構多い。
ただご多分にもれず常連客のほとんどが大の音楽好きであった。

1979 . 12 頃

数年「ロンシャン」をやったあと、今度は場所を常盤通り(通称、飲み横)に移し、名前も「ホンキートンク」とした。
このお店はピンサロの上の3階というすごい立地の場所にあった。
似たような立地のライヴハウスで思い出されるのは昔のあの、渋谷「屋根裏」であろう。
だがこの「ホンキートンク」は残念ながらライヴハウスではなく、「ロンシャン」と同じ飲み屋としての営業であった。

「ホンキートンク」店内の見取り図。
この絵からもわかるようにかなり広い。
スピーカーはライヴハウス時代に使っていたアルテックの巨大なもの。
(すでに尾口氏のライヴハウス「甚六屋」はこの同じ年に閉店していた。)
がらんとした雰囲気だったとよく聞いたが、場所が場所だけに客は少なかったらしい。、ただ隠れ家的でひいきにする人も中にはいたようだ。
カウンターは使われなかったのだが、なぜか一人もしくは少人数の客がほとんどで、バルコニーなどでもくつろいでいたようである。
往年のジャズ喫茶のような雰囲気だったようだ。
このレイアウトや広さを見ると、再び本格的ライヴをやることを念頭にここへ移ったのは明白である。
実際一度、いちかたい氏のバンドが機材を持ち込んでライヴを行なったことがあるそうだ。
なぜ定期的にライヴをやらなかったのか?
苦情問題か、集客か、はたまたプライドか?それは今となってはわからない。。。
ただ子供が二人できた為か生活はかなり厳しく、昼間は鰻やで出前のバイトをしていた時期もあったと生前語っていた。






頑張って続けてきたこの「ホンキートンク」も残念ながら約3年で店を閉めている。
皮肉にもこの約1年後、甚六屋常連だった「たま」などによる空前のバンドブームがわき起こる。

そして島津はこの店のちょうど真向かいに再び、新たな店を構えるのである。
なんとその名は「甚六や」!

ライヴハウス「甚六屋」を尾口氏に任せた島津は新たな店を出す。
それが「ロンシャン」である。
名前の由来は、その店舗の以前の名前をそのまま拝借したもの、看板もそのまま使えるし、合理的と言おうか、いい加減と言おうか、島津らしい選択ではある。
この店はライヴハウスではなく、普通の飲み屋としての営業であった。
当時の奥さんに生活のため、飲み屋を出すよう促されたらしいが定かではない。
ただライヴハウスでは商売にならなかったことは確かなことであろう。
2店舗並行しての時期もあったが、翌年には完全に権利を尾口氏に譲り、この店一本となる。

※敬称略

1984 . 頃

以前「ホンキートンク」があった場所の現在の様子。
やはり入り口は以前と同様ピンサロである。
女性客はかなり入りにくかったよう、当然である。
この3階、今はどうなっているのであろうか?

1987 . 春

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