甚六屋年表

最終章 : 再び甚六や

元「甚六や」の現在の様子、インド料理屋になっている。
内装はだいぶ手を加えられ綺麗になってはいるが面影は残っている。

ここに移ってからは一階で狭いというせいもあるが、再び賑やかで猥雑な雰囲気が戻ってくるのである。
名前も「甚六や」になったせいか、以前通っていた客も再び訪れることが多くなった。
なぎら健壱も名前を懐かしがってひょっこり訪れ、たまに顔を出していたようだ。
新しい世代のミュージシャンも何故か多く来ていたようだ。
今回ミュージックラインに出演する野間瞳もよく訪れ、地元出身の安藤秀樹も客として何回か来ている。
もちろん「ロンシャン」時代同様、客、マスターのセッションや大音量でレコードに合わせて騒ぐなど、相変わらずやりたい放題であった。

私は確か1988年頃、友人に変な店が千住にあると聞き、当時住んでいた亀戸から自転車で来てみたのがきっかけだった。
遅くに一人で行ったのだが、皆のフレンドリーさに驚いた覚えがある。
初めて来たのに常連に促され、ギターを弾いて歌ったせいか、ただ単にみんな酔っ払いだったせいなのか、
皆で大いに歓迎してくれ、自分もいたく気に入ってしまった。
それからはすっかり常連になり、挙句の果て千住に移り住んでもう十数年?!

1987 . 春

自分が知っている「甚六や」のエピソードは、言える物から言えない物まで数多くあるが一部だけ紹介しよう。

☆ストリーキング事件
ある日店を訪ねると、マスターと常連客2人が真っ裸になっていてた。
そしてなぜか帽子は被っていて、鏡で一生懸命帽子の位置を整えた後、お店を出ていってしまった!
そしてなんと15分ぐらいも戻って来なかったのだ。
駅の周りを走ってきたのだそう、満足げにそのままのカッコでカウンターに座り、酒を飲んでいたのだった。
☆花見事件
マスター含め常連客で浅草の墨田公園へ花見に出かけた(何年かの間は恒例になっていた)。
そこでしこたま呑んで騒いだ挙句、置き引きまで捕まえて皆ご機嫌で帰りの東武線に乗り込んだ。
そこで離れ離れに皆座ったにも関わらず車内でセッションが始まってしまったのだ!
座席が埋まる程度に人はいたのだが、そんなことにはお構いなく。
子供と外人と、そして自分たちだけが楽しそうにしていたような記憶が。。。
☆ケンカ仲裁事件
「甚六や」でケンカが起こるのは日常茶飯事であった。
ある日例のごとくケンカが始まり、珍しくもマスターが止めようと間に入った瞬間、変わりにパンチを浴びてのびてしまった。
殴った客もあわてて、もうケンカどころではなく一件落着。
後日、大きく腫れ上がったマスターの顔を肴に酒が進んだのは言うまでもない。
それ以降、彼はケンカの仲裁に一切入ることはなかった。
☆真夜中のブルースセッション事件
よくマスターは泥酔してくると下世話な「おま○こブルース」なるものを即興で歌う。
ところがある日、これに対抗して女性の客が「おち○こブルース」を歌いだしたのだ!
しかもとんでもなく下世話に。
皆拍手喝さい、そしてマスターも歌い出しどうしようもなく卑猥な掛け合いに。
あんな最悪なデュエットはいまだかつて出会ったことがない。
☆真夜中のディスコ大会
これは事件でもなんでもなんでもないのだが、よく大音量でレコードをかけ、狭い店内がディスコと化すことがあった。
後半、ライヴハウス時代の巨大ALTECスピーカーを店内に入れてから、その音量はますますエスカレート、夜中(明け方?)ということも手伝い、かなり遠方からでも聞こえたようだ。
苦情なども日常茶飯事だったような?そうでないような。。。。

以前の「ホンキートンク」の真向かいの一階、スナックだったお店をそのまま借り、新「甚六や」はスタートした。
再び「甚六や」という名前にした理由は、奥さんが「尾口氏が頑張って名前を守ってくれたのだからそれに答えたら」というアドヴァイスだったらしい。
こじんまりとしたその店は、いっけん喫茶店風、カウンター席とテーブルが3つ(後に2つ)のものだった。


※敬称略

1993.4 頃

自分はこの頃、同じ「甚六や」常連の飲み屋のオーナーから場所を提供してもらい、「バーボンストリート」というライヴハウスを2年間やったことがあった。
その時いろいろ親身になってくれたのが何を隠そうマスター島津であった。
いろいろ機材も提供してくれ、自宅の軒先に放っておいた例のアルテックのスピーカーも貸してくれた。(修理しなくてはならなかったが、)
そしてそこに出演してもらったミュージシャンの一人が、実は「甚六屋」ゆかりのムーニーだったのだ。
そんなことはまったく知らないで当日その話を聞き、早速ライヴが終わった後、「甚六や」に赴いたのだ。
感慨深げなムーニーをよそに島津はいたってマイペース、とてもいい感じな二人の趣であった。
再会した二人の握手、会話はとても印象深く、大切な記憶として今も残っている。
それから毎回ライヴに出てもらった後は朝まで「甚六や」で一緒に過ごした、ファンの子やゲストの人たちを伴うこともあった。
野間瞳の兄もよく出演てもらい(兄妹とは知らなかったのだが)、後に「甚六や」の大常連となる。
常連だった"いちかたい"バンドも何回か出てもらい、ライヴ後皆で「甚六や」に繰り出したこともあった。

しかし島津はどのライヴにも顔を出すことはなかった。
営業時間ということもあったのだが、何か違う意味で意地になっていたような気がする。
今となっては知る由もないが。。。
ただ、一度だけ顔を出してくれたことがある。
「ハイタイド・ハリス」という黒人のブルースマンに出てもらった時、”レコード持ってるんだよね”と少しの時間だけ見に来てくれたのだった。
その時一緒に出ていたのが、今回のミュージックライン千住で、元「ぎんぎん」のブルームダスターカンを紹介し、共演もしてくれる石川二三夫であった。

この「バーボンストリート」をいろいろな事情でやめた時も、マスターには本当に力になってもらっている。

第二章へ

×閉じる

トイレにずっと居た”リンゴスター”、左上には「BAT→BUT」の落書きが。

1997 頃

この頃、島津は再びライヴハウスをやろうと動き出す。
場所は千住旭町、かなり広い物件を見つけ、「夢来館」からの仲間、ヒロミ氏にも工事を相談するなど具体的に話を進めていたが、結局、家賃などの交渉が最終的にうまくいかず、諦めざるおえなかった。
ただ、呑んだくれマスターがいつかまたライヴハウスをやるつもりだと言う言葉どおり、具体的な行動を起こしたことに新鮮な驚きを憶えたのだった。。。

2000.3.21 早朝

島津貫司は突然逝った。
いつものように店を閉め、自転車で南千住の自宅に帰る途中、千住大橋の手前で交通事故にあったのだ。




通夜、告別式には本当に多くの人たちが参列した。
いろいろな時代の、その仲間たちが。
「甚六や」の店自体、うまくいっていたとはとても思えなかったが、本当にたくさんの人が弔問に訪れたのだ。

そして棺に花を手向けるその時、ザ・バンドの「ラストワルツのテーマ」がラジカセを持参した有志によって流れされた。
その音はその場に静かに鳴り響き、空気を悲しいものから厳粛なものへと変えたような気がした。
いよいよ出棺、その時「アイシャルビーリリースト」が、静かにそして力強く流れ始めたのだった。

すべて有志たちの手で行われた「送る会」は、かけがえの無い特別なものとなった。
皆の気持ちがひとつとなって、ひとつのことをやり遂げる、それはわずかな打算のかけらもない、本当に無垢で純粋なものだった。たくさんの人間が皆で協力し合い、それぞれに出来る限りのことを自然にしていた、しごく当然のことのように。

本当に奇跡だった。。。

それは音楽をとことん愛して逝ってしまった者の、最後のプレゼントだったのかもしれない。

「甚六や」はすぐに閉店になったわけではなく、常連客数人が一ヶ月間日替わりでマスターを務め、店を続けた。
それは自分たちなりに気持ちを整理するためのものでもあったが、できれば店は続いて欲しいという願いも少なからずあったと思う。
そして常連客だった若い一人が店を引き継ぐことに名乗りを挙げたのである。

しかし、それから約一年後、「甚六や」は閉店することになる。
店を存続したこと、きっとその若いマスターと亡くなった島津の奥さんにとって、それはとてもつらいことだったのかもしれない。


その後、、、、

継承

ざっと「甚六屋」とそれに関る物事を追ってきましたが、もしかしたらこのような出来事はどんな場所、いつの時代でも、繰り返されることなのかもしれません。
”夢来館”のポスターの中でこう宣言されています。
「現在の社会で要求されているものは打算的な人間関係ではなく、赤裸々に語り合え、深い信頼の元に生まれる人間関係であろう。」と。
これは今の時代にこそ必要なことなのかもしれません。しかし普遍的に変わらないものだとも言えます。
いつの時代も、人との関わり合いから希望が生まれ、希望から人との関わり合いが生まれる。
そしてつながっていくのです、ずっとずっとそれは永遠に。

 

あとがき

出来る限り誠実に作ったつもりではありますが、限られた時間の中での取材、またかなり昔の事柄なので、実際とは食い違う箇所も多々あるかもしれません、どうかご容赦ください。
そして今回のミュージックライン千住Vol.3「甚六屋トリビュート」の開催と共、多くの関係者の方々にご協力いただきありがとうございました。
特に、、尾口氏、島田氏、やす子さん、ヒロミ氏、藤井氏には貴重な時間を割いていただきありがとうございました。
そしてヒロコさん、申し訳ありません、本当に本当にありがとうございました。

そして最後に島津貫司氏と、22日亡くなった父に、感謝を。      2006.3.14